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あいりん地区④
あいりん地区②
あいりん地区
あいりん総合センター①
あいりん地区⑤
あいりん地区⑥
事業名   :NPO法人設立
事業内容    :貧困者支援事業
      :貧困者への食糧支援
      :自立支援
      :相談窓口の設置
      :就労支援
                   :避難場所の提供

対象地域  :大阪市西成区あいりん地区近隣地域
支援対象年齢:0歳~上限なし
対象性別  :制限なし
活動拠点  :大阪市西成区萩之茶屋
​提供事業者 :合同会社 太郎 運営「民間非営利団体 ゆきち」

 

​あいりん地区高齢者支援

​あいりん地区という場所

 大阪市西成区あいりん地区(釜ヶ崎)の歴史

 

 大阪市西成区にある「あいりん地区」は、長い歴史の中でその存在感と独特な資質を作り上げてきた。とてつもないパワーと活気は未だに忘れられていないのは、その土地が持つ性質とそこに住み着いた人間性が生みだすものなのか、実際にその地に行ったものしか理解はできないであろう独特のものがある。

 

 絶頂期には、労働者の聖地といわれるほど、充実した地であった。住みやすく当時の日雇い労働者にとって都合の良い場所だともいえた。この地域には、労働者だけに限らず多くの人種が集まる異質の地でもあった。労働者、犯罪者、逃亡犯、ヤクザ、おかま、売春のあっせんなどなど、このような多様な人種が入り混じっても地域が正常に機能しているのには、大阪特有の人情味と差別なく人々に接する愛嬌、そしてなにより、その土地に対する愛情と矜持という心意義こそが、あいりん地区に集まる人々のエネルギーとなっているのはいうまでもない。この地域独特の性質はその地に触れた者しか理解できないものであるといえるのではないだろうか。

 労働も犯罪者も生きやすいようなこの地域は、日本最大のスラム街として知られるまでとなった。しかし、一見して無法地帯のように見えるこの地域も、意外と住みやすく、福祉も充実した地域である。しかし、自由気ままな生き方が許された従来までの生活が一変し、行政による介入がそれを許さない。

 

 このあいりん地区も西成特区構想により、路上生活者の一斉排除、景観の保全などの政策を受け入れざるをえない状況となってきた。

 

 私が目にした光景がある。その日はとても寒い、雨の日であった。あいりん総合センターの一角で雨宿りをしている時の事、ブルーシートで作ったその家はこだわりを持っているのか、一見立派に見えた、個室であろうと思われるその家を取り囲むように集まる浮浪者の集団が深刻な顔で話し合っている。   

 その内容はこうだった、「さっき役所のやつがきよったで」「一斉撤去の件か」「近日中にこの一帯全部を一掃して、わしら路上生活しとるもんとてんとからを全て撤去するぬかしよんねん」「役所のやつらむちゃくちゃぬかしんな」「なんやゆうても聞く耳もたんさかいんさ」「はよ新しいとこ探がさなあかんな」という会話を耳にした。一般的な考え方から言えば、保護を受けて福祉アパートへ入るべきだと言うであろうが、「次の住み場所をさがさなくてはならない」という意見に一同が当たり前のようにうなずく。暑さ寒さの心配よりも、自分たちの生活のスタイルを優先する考え方が、この地域では当たり前なのである。話を聞いていると、橋の下や公園といった場所が候補に挙がる。これには流石に驚いた。乞食をするとやめられないという嘘か誠か分からない話はよく耳にはするが、実際にこの地域を歩いてみると本当の事なのかもしれないと、思わされる。当時から随分と地域の改善はなされたとは言え、その名残をいまだに感じられる。当たり前のようだが、この地域に住む人間にとってそこは聖地みたいなもの、立ち退きを素直に受け入れることなどはしない、暴動の過去からもわかるように、この地域の人たちの扱いに慎重になるのは頷ける。この話は2021年の1月の頃の話である。自由あるが故に人間の性分がうかがえる「街あいりん地区」。拮抗状態は膠着するばかりのあいりん地区を改善していくにはどうすればいいのか?​あいりん地区の歴史を追ってみた。

 

 

 

 

 

 

1950年代

 新今宮の北、日本橋の1丁目から5丁目までは、江戸時代から長町呼ばれ、堺筋沿いに木賃宿が建ち並んでいた、それから更に奥まで入っていくと安宿うあ粗末な民間が軒を連ねていた。

​ 因みに、木賃宿(きちんやど)とは、宿泊だけの宿の事で、自炊する際の燃料代を宿泊代金と一緒に支払う仕組みになっている。

明治初期に入り、コレラ・ペストが流行した。あいりん地区は、人口密集地帯の上、不衛生状態であったために、長町の環境は問題視されたいた。1989年(明治31年)大阪で木賃宿の営業が禁止される。1904年(明治37年)第5回内国勧業博覧会(現在の万博のようなもの)が現在の新世界開催さる事から、その一帯は一変したのだった。その後、釜ヶ崎の路線には交差していくつかの路線が交わり交通の便がいいことから、営業が禁止になった木賃宿が長町から一気に釜ヶ崎に移っ来てきた。釜ヶ崎一帯は木賃宿で密集することとなる。木賃宿の姿はもとても劣悪なものだったが、その時期とほぼ同じ時期に、生活者や労働者が流れ込んできた。

 

                                

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                  

 

 

 

 

 

 

 

 

 三徳寮​

 

​ あいりん地区の劣悪な環境と不定期で安賃金の労働に対し、救済の手を伸ばしたのが、当時大阪府警の保安課長だった。1912年、自彊館として福祉施設を設立、三徳寮として今でも運営している。救済対象者は生活保護の申請までの間の一時居住先、短日宿泊(緊急避難場所)救護施設としての受け入れを行っている。

 

                                 

 

戦後の混乱期

1950年代

 

 大阪大空襲により、木賃宿は僅かばかりにとってしまったが、その後、釜ヶ崎には戦災被害者被害者が多く集まり、粗末な簡易宿泊所やバラック小屋に居住し始めた。荷物担ぎ、靴磨き、露天商など、人々は混乱の戦後を必死に生き延びようと懸命だったが、混乱が収まった頃から、新しいビジネスチャンスや仕事を求めて、再び釜ヶ崎に多くの人々が流れ込んできた。

1960年代

 

 高度経済成長期に入り、求人の需要は高まり、常に仕事もある状態が続いたことから更に人が増え、1970年代(昭和45年)大阪万博の建設ラッシュに伴い、人だかりは更に増していった。

                               

暴動

 

 仕事はあるものの、未だに安定せず、低賃金の収入で先の見通しもきかない状態にストレスをふき取る事も出来ずにいた。そんな時の事、暴動事件が勃発。

​1961年(昭和36年)に最初暴動が起こった。1963年に2回、1966年に4回、1967年に1回、その後も暴動は起きつづけた、こんなこともあり、釜ヶ崎は、大阪府。大阪市。大阪府警により、この地域をほかの地域と一線を引いて「あいりん地区」と命名するに至った。暴動の鎮圧を張るとともに、その地域の環境の改善を国を中心に大阪府は「あいりん地区」における、医療、労働、福祉対策を基軸とした活動が官民一体となりおこなわれる事となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1970年代

暴動後は、安全のために世帯を地域外の公営住宅へ移す政策が推し進められた。60年代のころの釜ヶ崎は、男女比率は同じだった。子供がいる世帯も多く、学校の収容人数は割合を越え超過気味であったが、現在に至っては、女性はほとんどいない状況、男性の方が多数を占めるというのが現状です。

その頃、新今宮駅の前に「あいりん総センター」が設置されることで、釜ヶ崎の構成は大きく変化したのです。あいりん総合センターには労働者のセーフティーネットワークの役割を担うと同時に、働き先の紹介、健康保険、雇用保険の受付、白手帳発行(日雇労働被保険者手帳)などの手続きが可能となり、実質、あいりん地区に居住し、労働に従事する者に、法的に保護するまでとなった。これを機に、あいりん地区の様相は急転することとなり、釜ヶ崎の発展の礎えとなったのでした。

                          

           

 

 

 

 

日雇い労働者の聖地

1980年代

 

 好調な景気に加え、労働者達は日雇い労働者としての労働条件が改善され、法的保護により安心して働ける環境も整いました。80年代後半にはバブル期を迎え、高度成長期という事もあり、釜ヶ崎の活気は鰻登りの様相を示したのでした。この地域の特性として、一部が変われば地域言ったがそのれに対応する傾向があり、浪速商人の商売上手な面がうかがえる。釜ヶ崎一帯のホテルにも変化が起こり、7割のホテルは高層化し、個室へと変化していきました。

 

 

 

労働者を取り巻く環境

1990年代

バブルが崩壊した1991年(平成2年)、それまでの活気がこの頃から衰退し始める。当時の安宿の一泊料金が500程度、日雇いでの仕事しかなかったために、仕事がもらえないようになれば、収入もなくなる、このために泊まる事さえもできなくなり、路上生活を余儀なくされ、野宿する人が増え始めた、その頃生活保護の制度が整備されたが、当時は、生活保護施設のみへの入所だけだったため収容できる人数にも限りがありあいりん地区一帯は路上生活の労働者であふれかえることとなったのでした。ホームレスとなった者たちへのホームレスの対応が機能しない状態でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

福祉の街へ

2000年代

 

 ホームレスの増加に伴い、この状況を改善すべく、多くのNPOの設立され、社会保障を求めた活動が一気に強調されはじめた頃からだった。この変化に合わせ、西成という街も同じく変化する事となり、安宿の存在が労働者向けの短泊、素泊まりから、福祉アパートととして、生活保護受給者向けのアパートへと変化していったのでした。また、関西空港と近く、リーズナブルなホテル代金のために、外国人観光客の人気スポットとなり、外国人向けに和室から洋室に、ホテルからゲストハウスにと、対象が変わると同時に、今までの概念ごと変化していったのでした。

​NPOや社会運動もこのあいりん地区が日本一といわれ、福祉の充実した街であることも、住みやすさの一因でもあります。地域の性質上、視察も多く、未だに労働者の聖地とし機能している。

 

 

 

 

 

あいりん地区には、一人では生活が困難な高齢者が増加中で、福祉に頼らざるをえない人が多く住んでいる。この地域に住む高齢者は一人世帯が多く、その多くはディケアサービスに頼ったり、入退院を繰り返している者もいます。その為に、この地位では、救急車が往来を繰り返しています。現在の「あいりん地区」の人口は2万人ほどですが、今後増々人口は減少傾向に向かうとの報告がされている。

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​貧困者支援事業で地域の振興の一助となります。


この地域は、一見すると閉鎖的のような感じもしますが、実際はいかにも大阪人という感じの開放的な人たちが多いという意外な事実。しかし、地元意識が強いというのも事実です。
 この地域の規則は、そこで暮らす地域住民で決めるという矜持が強いように感じられますが、それだけ、この地域の繋がりは強いのかもしれません。

 この地域で生活する人たちには、支援を必要とする社会的弱者も暮らしています。このような、表面的には分からない事に対してどうやって支援を行っていくかという事は、貧困だけの問題ではありません。地域で暮らす人たちが、同じ思いで、地域環境の改善に向け取り組んでいける事ができれば、改善も期待できるはずです。

 貧困者支援に必要かな具体的な事までの支援を私達にはできませんが、可能な限りの努力を惜しまずに、地域住民と共生していきたいと考えております。

 皆さんも、この取り組みを理解いただき、ご協力いただければとてもありがたいと思います。
​ 今後団体の取り組みに関する経過について、随時更新していきたいと思います。ご興味をお持ちになった方は、是非ご参加ください。


 
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2023年
変貌するあいりん地区
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